国境の島 [海、島の本]
先週読んだ、2冊の本。
行きたくてもいけない島.... 領土問題で騒がれても、教科書では語られない国境の島の発見の歴史が、簡単にわかりやすくまとめられている。
また、間宮林蔵をモデルにした吉村さんの小説では、半島なのか島なのかを見極めるために命がけで”樺太”を探検した話だけではなく、幕府の隠密として日本全国を渡り歩いた彼の功績と人生が綴られている。
どちらにも、異国から日本の領土を守ろうとした歴史が書かれている。
先日、政府は、領海の範囲を設定する基点となっている約400にのぼる離島の保全に乗り出す方針を固めた。
関係省庁による連絡会議を設置し、所有者やその国籍、島の名称などの調査を進め、海洋資源の管理や、安全保障体制の強化につなげるそうだ。
これらの島を基点とした領海や排他的経済水域(EEZ)を正しく理解できている人がどれだけいるのだろうか?
昨年、西宮市内の高校生3223人に、千島、樺太と北方四島、日本海、東シナ海(南方)の3種の地図を示して日本の国境を描かせる調査を行ったところ、全問正解できた生徒は全体の2%にも満たなかったそうだ。これって、高校生だけの話だろうか?
海保のホームページには、上図のような地図が載っている。
日本の国土の面積は、約38万平方キロメートル... 世界で61番目(192ヶ国中)の大きさしかないが、領海と排他的経済水域を足した総面積は、約12倍に相当する447万平方キロメートルとなり、世界第6位の海洋大国になる。
それだけ、日本の離島の役割は大きいんですね。
島旅ひとりっぷ [海、島の本]
ブルータス、お前もか? [海、島の本]
南嶋探験 (笹森儀助) [海、島の本]
ヒカゲヘゴ
西表島の杜の中には、こんな大きな羊歯(シダ)の木がある。
初めて見た人は、『ジエラシックパークのようだ』と言う。
まだまだ、原始の風景が残る西表島。
今から120年前(1893年)、沖縄の島々の実情や農業、産業などを調査するために、西表島を訪れた探険家がいた。
笹森儀助
彼が書いた、
南嶋探験
によると、彼は2日間かけて西表島を東から西に横断している。
仲間川をくり舟で遡り、途中雨に降られ、道に迷い、転んで手や足に怪我を負い、ヒルに悩まされながら野宿をし、道無き山の中を仲良川の上流まで達し、たまたまやってきた漁師の船で川を下り、祖納村まで戻ってきた... のような事が書かれていた。
カマイ(イノシシ)猟に同行して、何度か西表島の山の中に入ったことがあるが、写真のようなかっこうでハブが住むジャングルの中を歩くなんてとても信じられない事だ。
この時は55日間かけて、沖縄本島、慶良間諸島、宮古島、石垣島、西表島、与那国島、の村々を訪ねて回り、その様子をこの『南嶋探験』という本に著した。
交通手段もままならないこの時代に、この短期間でよくここまで詳しくまとめたものだと驚く内容。
ただ、文語体で書かれているのでとっても読みにくい... 誰か口語体に訳してくれないかなぁ~。
彼は、その後、奄美大島の島司を4年、そして地元の青森市長も務めている。
この本の『緒言』に下記のような事が書かれていた。
『国ヲ守ルト家ヲ守ルト個ト一理ナリ。人ノ家宅ヲ占ムルヤ周囲必ラズ垣ヲ結ビ、表裡必ラズ門戸ヲ作リ、門戸必ラス菅錀(くわんやく)ヲ施シ、以テ盗賊ノ入ルヲ防ギ、以テ家族ノ安寧ヲ保ツ。今我国ノ形勢ヲ観ルニ四境ノ防備果シテ全キヲ得ルカ、門戸果シテ菅錀アルカ、清夜観念スレハ説ヲ持タズシテ悟ルモノアラン。』
国を守ることは家を守ることと同じとし、当時の日本の防衛を憂いている。
今日、安部さんは所信表明演説の中で、『領土・領海・領空や主権に対する挑発が続く外交・安全保障の危機...』と言っていたが、具体的には何も語らなかった。
今、日本が取り組まなければならない最も重要な課題だと思うのだが....
一方聞いて沙汰するな [海、島の本]
一方聞いて沙汰するな
とは、片方の言い分だけを聞いて物事を判断するなという意味。
ちょっとこれと似ような話を..
ブログに島の話を書くとき、自分が体験したことだけではなく、島の人から聞いた話や、観光パンフレットの説明文から引用することがある。 しかし、その話の中には、勘違いや思い込み、根拠の無い伝承などが時々ある。 平家の落人伝説などは、その最たるもの。
なるべく嘘偽りがないようにと、書く前にいろいろと資料を調べ、裏づけをとっているつもりなのだが、それでも自信の無い時は、『~らしい』、『~のようだ』、『~と言われている』、などの言い回しを使って責任逃れをするようにしている。(笑)
今日読んだ本、
考証 切支丹が来た島
は、そんなことを再認識させられた本だった。
内容は、キリシタン禁止令によって、神津島に流刑になった”おたあジュリア”の足跡を考証したもので、島の郷土史家の推論によって、島にあった供養塔が”おたあジュリア”の墓とされ、神津島で亡くなったとされてしまったことへのアンチテーゼ。著者自身が調べた事実に基づき、論理的にその推論に疑問を投げかけている。
”おたあジュリア”は、謎多き人物、秀吉の朝鮮の役の際、日本に連れてこられた朝鮮人の娘で、キリシタン大名の小西行長の元で育てられ、関ヶ原の戦の後、徳川家康の側女の侍女として仕え、寵愛を受けたが、キリシタン棄教の要求を拒否したため、伊豆大島、八丈島(もしくは新島)、神津島へと転流になった....
神津島へ流れついたというところまでは、本当の話のようだが、その島での暮らしぶりやその後の足跡はほとんどわかっていない。
神津島役場の観光案内のホームページには、
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秀吉の朝鮮の役の際、戦争孤児として日本に連れてこられたオタアジュリア。クリスチャンであったジュリア”終焉の地”がこの神津島であり、島の人々に尽くしたジュリアを偲ぶため...
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と書かれてあるが、
ウィキペデイアによれば、
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おたあは”神津島を出て”大坂に移住して神父の援助を受けている旨の文書があり、のちに長崎に移ったと記されている。その後の消息および最期については不明...
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と書かれている。
こういう謎めいた話は、郷土びいきになったり、観光目的で利用されることが多い。
自分が調べたわけでもなく、受け売りする身なので偉そうなことは言えないが、やはり、事実は事実、推測は推測として正確に伝えてもらいたいし、知りたいとも思う。
P.S.
気がついたら、今回の記事でちょうど”800”になっていた、内容が”嘘八百”にならないよう気をつけます...